碧を「青」と呼ぶ 九谷の青手

緑の縁に紫と黄の文様を配し、中央に紅葉と橋を渡る人物を描いた九谷焼の色絵皿(19世紀半ば)

九谷焼 色絵皿 19世紀半ば メトロポリタン美術館所蔵(パブリックドメイン)

九谷焼では、緑の絵具を「青」と呼びます。九谷を代表する「九谷五彩」も、青(緑)・黄・紫・紺青・赤の五色です。目に映るのは深い緑なのに、なぜ「青」なのでしょうか。

「あお」が緑を含んでいたころ

日本語の「あお」は、もともと青から緑までを広く指す言葉でした。青葉や青草、そして緑色に光る「青信号」にも、その名残があります。平安時代の辞書『類聚名義抄』(観智院本)では、「碧」「緑」「翠」の字に「アヲシ」と「ミドリ」の両方の読みが添えられています。九谷で緑を「青」と呼ぶのも、この広い「あお」の感覚の延長にあるといえそうです。

古九谷と「青手」

九谷焼は、加賀藩の支藩・大聖寺藩の初代藩主、前田利治のもとで始まりました。九谷村で陶石が見つかったことがきっかけとされ、遅くとも明暦元年(1655)には窯があったことがわかっています。この時期の作品は「古九谷」と呼ばれ、窯は50〜60年ほどで閉じられました。閉窯の理由は、いまもはっきりしていません。

古九谷には、余白を生かして五色で描く「色絵(五彩手)」と、もうひとつの様式「青手」があります。青手は赤を使わず、緑・黄・紫・紺青のうち二色か三色で、器の面を余白なく塗り埋めます。素地が粗かった初期に、緑や黄の絵具で全体を覆い隠す方法として生まれたとも考えられています。

石川県立美術館が所蔵する「古九谷青手桜花散文平鉢」(石川県指定文化財)は、口径45cmを超える大鉢です。重ね菊の小紋を黒い線で器一面に描き、その上から緑をかけて、木から落ちた桜の花と葉を紺青で描いています。

吉田屋窯、百年後の青

古九谷の窯が閉じてからおよそ百年後、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門が、文政7年(1824)に九谷村の古九谷の窯の隣に新しい窯を築きました。屋号から「吉田屋窯」と呼ばれるこの窯は、古九谷の青手の塗り埋めをよみがえらせ、青(緑)・黄・紫・紺青の四色を使いました。

窯はその後、山代へ移り、天保2年(1831)に閉じられています。わずか8年ほどの活動でしたが、吉田屋の作品は、透明感のある絵具の奥深さで知られています。ただ古九谷を写すのではなく、独自の意匠を生み出したことも、その魅力とされています。冒頭の皿も同じ江戸後期、再興九谷の時代のもので、縁を深い緑で塗りこめ、紫と黄の文様を重ねています。

ガラスのような緑

九谷の上絵具は、無色透明のガラスの粉に、色のもととなる金属や顏料を混ぜてつくります。青(緑)の絵具には銅やコバルトの色素が使われ、800℃前後で焼くと、ガラスの層の奥に透き通った色が現れます。九谷五彩の特長として、この高い透明感が挙げられます。

NORTAの「青」

NORTAの古九谷写しの蓋つき茶碗とお急須は、点を打った黄色の地に、緑の葉が大きく描かれています。古九谷の青手を思わせる、黄と緑の取り合わせです。蒼窓の蓋つき茶碗は、緑と金で彩られた地に、丸い窓をあしらっています。

古九谷写し絵 蓋つき茶碗古九谷写し絵 蓋つき茶碗古九谷写し絵 お急須古九谷写し絵 お急須九谷ビンテージキャンドル 蒼窓蓋つき茶碗蒼窓蓋つき茶碗

画像:冒頭「九谷焼 色絵皿」19世紀半ば、メトロポリタン美術館所蔵(91.1.144)(パブリックドメイン)/その他の写真:NORTA
参考:石川県九谷焼美術館「九谷焼とは」/石川県「古九谷青手桜花散文平鉢」/能美市九谷焼美術館「九谷焼について」/古九谷美術館「吉田屋窯」/九谷焼MAG「九谷焼の歴史と画風」/石川県工業試験場 研究報告/コトバンク「青」


Calling Green "Blue": Kutani's Aote Style

In Kutani ware, the green enamel is called ao, "blue." The Kutani five colors are listed as ao (green), yellow, purple, navy and red. The old Japanese word ao once covered everything from blue to green, which is why fresh leaves are aoba and a green traffic light is still a "blue" light; a Heian-period dictionary even gives the readings aoshi and midori for the characters for jade-green, green and kingfisher-green alike. Kutani began under Maeda Toshiharu, first lord of the Daishoji domain, after porcelain stone was found in Kutani village, and a kiln was operating by 1655. These early pieces, called Ko-Kutani, include the aote style: no red, just two or three of the other colors covering the whole surface, perhaps first used to hide a rough body. Ko-Kutani ended after some fifty or sixty years. About a century later, in 1824, the Daishoji merchant Toyoda Den'emon built a kiln beside the old one; his Yoshidaya kiln revived aote in green, yellow, purple and navy before closing in 1831, and is remembered for the depth of its translucent enamels. The dish at the top, from the same Revival Kutani period, has its rim filled with deep green and layered with purple and yellow patterns. Those colors are made by mixing colorants such as copper and cobalt into clear glass powder and firing at around 800°C. At NORTA, Ko-Kutani-style pieces pair green leaves with a dotted yellow ground, echoing aote. Header image: Kutani ware dish, mid-19th century, The Metropolitan Museum of Art (public domain).